自己の欲求分析
ふと、昔のことを思い出したりすることはありませんか?
小学生の頃、近所を遊びまわった記憶だったり、中学生の頃の部活動の記憶だったり、高校の頃のバイトの記憶だったり、様々です。
私も、色々なことをキッカケに過去のことを思い出したりします。
その中でもとりわけ多いのが、中学生の頃の記憶です。
中学生の自分。
とてもいい成績を取れた自分。
目標のために頑張っていた自分。
今やその自分は見る影もありません。
このことを考え出すと、今の自分が情けなくなってきます。
中学生の頃の自分は、他人に認められなくても平気でした。
認められたいと思うことも、なかったように思います。
他人に認められなくても、自分で自分のことを認められていたからです。
全てが自己完結していました。
十分に努力したと言い切れ、それに結果も伴ってくる。
そこに他人の入り込む余地などありませんでした。
現在の自分。
くだらない大学に通い、時間とお金を浪費している自分。
地元を出て、友達もいない中で暮らしている自分。
考えるだけでも嫌になってきます。
自分で自分自分を認めることは、もはや出来なくなっていました。
自分自身の理想である、自分ではなくなりました。
理想の自分であろうと努力することも、馬鹿らしく思えてきました。
こうなった自分が求めたのは、他人からの承認です。
自分自身で認めることができないのなら、他人に認めてもらうしかありません。
しかしながら自分とは違い、他人とは自分の思い通りにはならないものです。
自分で自分を認められるような状況にある場合、自分が認められ、満足することができるのかどうかは、自分次第です。
自身の精神状態は、自身のコントロール下にあります。
自分で自分のことを認められず、他人に自分を認めてもらうしかない状況にある場合、自分が認められ、満足することができるかどうかは、他人に依存しています。
自身の精神状態は、自身のコントロール下にはありません。
他人というものは、自分自身でないが故に不安定な存在であり、自分でコントロールできるものではありません。
他人は他人で意思を持っているからです。
自分で自分自身を認めたい。
他人に自分を認めてもらいたい。
どちらが、ヒトとして高度な欲求なのでしょうか。
私は、全てが自己完結しており、不確定な他人という要素に作用されない、前者の欲求を持った人が、より高度な精神段階にあると考えました。
それにおいて、最高次の欲求は自己実現の欲求とされています。
そして、その1つ低次の欲求が承認欲求だとされています。
なんとなく、このように定義された理由が理解できたような気もしました。
振り返ってみると、自分の中で、1番充実していた中学時代は、自己実現の欲求を元に、生活できていました。
自分の望む自分になるための努力をしていました。
今の自分は、その努力をすることすらやめて、日々他人に認められることに生き甲斐を見出しています。
もう一度、自分の望む自分を設定し直して、それに向けての努力をし、それを生きがいにして暮らしていく。
それが今の状況を打破する唯一の手段のようにも思えました。
自己完結完結させられる生活・精神を目指して
くら寿司に行きたいです。